僕は大阪に住んでいる。大阪といえば2020年11月1日にある住民投票が実施される。その住民投票とは、大阪市を廃止し、4つの特別区に分割する制度案の賛否を問うものだ。

いわゆる「大阪都構想」はかなり激しい対立となる。それは予測ではなく、2015年、わずか1万票の僅差で否決された。そして、すでに賛成陣営と反対陣営それぞれが激しい運動を展開している。

大阪にいる臨場感でいうと、正直なところ温度差がかなり激しい。完全に無関心な方もいれば、街頭に繰り出してビラを配っている方もいる。インターネットを見れば賛成も反対もそれぞれが懸命に主張を行っている。

俯瞰してみると次のような疑問が浮かぶ。

「なぜ、ここまで熱くなるのだろうか?」

「それが”良い仕組み”なのだとしたらなぜ賛否が分かれるのだろうか?」

「この意思決定で何がどこまで変わるのだろうか?」

それらの問いに答えていく上で一つのパラダイムを共有したい。政治にはその性質上、「正解」や「完璧」という状態が存在しない。僕がそう考える理由は3つある。

1.政治とは人々の利害を”調整するもの”であって、”最高にするもの”ではない。

2.せいぜいできることは”最適化すること”ではあるが、何が”最適”であるかはそれを評価する人の数だけ存在する。

3.そもそも利害を調整するにあたって、その利益を受ける当事者がそれを利益であると判断することができないことがある。

一つずつみていこう。

 

1.政治とは人々の利害を”調整するもの”であって、”最高にするもの”ではない

僕はある政治学の入門書に書かれていた定義を好んで使う。その定義は、政治とは”利害を調整すること”というシンプルなものだ。そのため政治とはその定義から全員が等しく大満足する状態をつくるのは現実的に不可能だと思われる。

全員が満足できないなりに、納得する落とし所を目指していくものではないかと思う。その全員が納得している状態を”最適化”をする。しかし、これさえも現実的には不可能だろう。その理由が次の理由だ。

 

2.せいぜいできることは”最適化すること”ではあるが、何が”最適”であるかはそれを評価する人の数だけ存在する

例えば、格差是正を掲げるとしよう。お金は数値で表せるので比較的わかりやすい。しかし、その格差是正という方針に賛成できてもどのくらい是正することが最適であるかの評価は人により異なる。

お金を稼いだ人にとっては、数々の努力を重ねて稼いだお金を国の権限で持っていかれるのは気持ちが良いものではないだろう。一方で、様々な出来事が重なり、社会構造の間でたまたま稼ぐことが難しくなったような人にとっては出来る限り多く分配してもらえる方がありがたいだろう。

それぞれの利害がある以上、税収をどのような層に対して、どの程度再配分するのが”最適”であるかの判断は当然人それぞれ異なるだろう。すると、全員が納得できる落とし所を見つけるのは現実の人の心の動きの中では難しいだろう。
政治における利害調整が難しい理由はまだある。

 

3.そもそも利害を調整するにあたって、その利益を受ける当事者がそれを利益であると判断することができないことがある

わかりやすい例はタバコだ。「百害あって一利なし」と言われるほど体に悪く、しかも課税額も高まっている。お金をかけて体を壊しているため、喫煙をしない人にはタバコに利益があるようには見えない。しかし、喫煙者はストレスが発散できたり、コミュニケーションができたりすることで、利益を感じていることがある。他にもタバコを吸うことに何かの思い出を重ねたりする人もいるかもしれない。

このように当事者が思う利益とそれを評価する人の利益は異なる場合がある。為政者はその評価をする人に当たり、当事者のためを思って外すこともあるはずだ。

逆に、当事者たちからは猛反発を受けたとしても中長期的に下さなければならない決断を下すことも政治の仕事だと思う。その点、政治家は結局”最適”とは何かがわからない中、意思決定をすることが求められている。

では、利害調整とは単なる理念でしかないのだろうか?

僕はそうは思わない。


 

政治とは少しでもマシな方を選び続ける終わりなきプロセス

政治に正解はない。それは絶えず動き続ける利害を調整し続けることやそもそもその利害が定義できないためである。だが、そのままだとよりどころになるものがない。だが、実はよりどころになるものはまだ残っている。それは私たち市民一人ひとりの中にある「声」だ。感情や感覚といってもいい。自分が今暮らしながら感じていることだ。

将来の不安、今の仕事への不満、地域活動への期待や福祉制度の安心など、政治から感情を切り離さず、市民はむしろそれを積極的に持ち込むべきだと思う。その感覚だけが拠り所になる。

確かに定量的なデータは大切だ。どういう属性の人がどのくらいのいるのか人数を把握しなければ公共性の見極めができない。一方でデータ上、苦しい生活環境にあるように見えても幸福を感じていることもあるだろうし、逆にデータ上豊かであっても、不安や恐れを感じながら生きている人もいることだろう。

政治には市民の「声」が必要だ。それを政治に携わるすべての人々がより良い仕事をするために必要としている。僕たちが暮らす街、国で僕たちが声を上げることで可能になる仕事がある。

だから、みんなで共に声を上げ、聞き合い、より良い状態を落とし所として探っていくような手続きが必要だと思う。それこそが良質な民主主義だと僕は思う。民主主義は市民の声を政治に反映するための統治機構のことだが、その状態はその統治機構を運用するすべての人々の状態によって定義づけられると思う。

完璧は存在しない。それでも今より少しはマシだと思えるところを目指して、僕らは感覚を共有していけるのではないだろうか。大阪で住民投票がなされる。

あなたは大阪市が残る方がマシだと思うだろうか?

大阪市を廃止して特別区を設置する方がマシだと思うだろうか?

きっとあなたが知りたいのは、その先にある自分のリアルな暮らしの状態ではないだろうか?

だからこそ周りの人と語り合ってみてほしい

「これからどうなるんだろうね?むしろ、どんな街で暮らしたい?その街は大阪市なの?特別区なの?」

 

未来を思い描けたとき僕らは政治を前に進められると思うから。