僕には大切な本がある。

「シャーマンズボディ」という本だ。

この本はプロセスワークと言う心理療法の創始者の
アーノルド・ミンデルによって書かれた本で、
アメリカ先住民のシャーマニズムの文化と
心理学、物理学の融合を目指した作品である。

僕はこの本に救われてきた。

折に触れて読み返し、
その度に前には気づかなかった
この本のメッセージと出会う。

良書の証だと思う。
他方、誰でも読み解けるわけではない。
知的な意味ではなく、
体験が追いつかないと思う。
かく言う、僕自身だって
どこまで理解できているのかわからない。
そんな不思議な本だ。

それでも、神秘的な人生の意味を解き明かすための
実践的なステップが描かれた本書は
これからも僕の道標になると思う。

今日は、僕の遍歴ではなく、
現在地について滔々と書いてみようと思う。
その現在地に名前をつけるなら
「僕を前に進めるもの」
といったところかと思う。
この記事は僕と同じように「前に進みたいのに、
進めない」そんな経験をしたあなたが、
また一歩、踏み出せるように願って書いている。

前に進むのがいいわけではない。
でも、時が来たら僕らは前に進みはじめる。

そんなお話です。

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1、前に進むことが大事なことなんでしょうか?

先日、お遍路に行った。
10日間ほどの区切りうちで
二十九番霊場 国分寺に始まり、
三十九番霊場 延光寺まで歩いた。
その旅の最初の寺である国分寺にて、
女性と出会った。50代後半と思われ、
ふくよかな体格で眼鏡をかけた彼女は
遍路で僕らに挨拶をしてきた。

そして、脈絡なく、彼女はこういった。
「最近、私、思うんです。
前に進むことが大事なことなんでしょうか?って。」

旅が始まった初日の朝一番の僕にとって
これはシンクロニシティだと感じた。
この問いは僕自身のものでもある。
この数年、何者かになりたくて、
ひたすら駆け抜けてきた。
でも、この旅に来たのは、
何者かになることを止めるためだった。

ある意味で僕は「荒川隆太朗」
というラベルから自由になるために
旅に出たのだった。

僕にとってこの10日間の旅の成果は
十分なものだった。
高知の自然の中で起きる天気の移ろい、
出会う人々との交流、
今までにない野宿生活と生活リズム。
その全てが僕には新しく感じられ、
明らかにいつもの「荒川隆太朗」
とは異なる誰かとして生活していた。

そして、その異なりは出来事の受け止め方の違い
として現れていた。
とても安らいでいて、穏やかで、
でもどこかどっしりしたものを感じていた。
そこにいたのは一人の遍路であり、
ただただ寺と寺の間を渡り歩く存在だった。

遍路から帰ってきて3週間くらいが経つ。
毎朝昇る朝日を見つめながら心で世界を見つめる。

前に進むことが大事なのではなく、
大事なものを見つけられたら
自然と物事は前へ進んでいくと今は思う。
そんな気がしてならない。

もし、僕が、あなたが
「前に進みたくても進めない」としたら、
僕らはきっと本当に大切な何かを
見落としながら走っているのではないだろうか。

遍路として歩いている時、
安らいでいて、穏やかな心でしか見えない景色があった。
僕たちは日々忙しなく、目的、目標を定め、
何かを前に進め、動かそうとする。
でも、目的、目標が明確になればなるほど、
目的、目標から一見関係のないことが見落とされていく。

ただ、本当のところ、その見落とされるものの中に
本当に大切な何かがあり、それを失ってしまったがために
前に進めなくなっていることに僕らは気づく必要があるのだ。

 

2、時を待つこと

”時にはその儀式を行うために、
何日も時が来るのを待たねばならなかった。”
シャーマンズボディからの引用で、
ミンデルが先住民の儀式に参加したときの描写だ。
僕たち現代人の多くにとって、
時間とはコントロールの対象である。
何時何分に何をどのようにするか、
その通りにならないことに
苛立ったり、焦ったりする。

愚かだと思わないだろうか。
僕は思う。

時間を操っているようで、
時間に操られている。
世界はただ日が昇り、
沈んでいくに過ぎないのに、
その流れに数字を入れ込んで、数えている。
あと、何日、何時間、何秒と時を刻みながら、
終わっていくこと、過ぎゆくことを
コントロールしている気でいる。

特別な瞬間の訪れというのは
『待つ』必要がある。
何もしないという意味ではない。
その流れを『止めない』ということが大切であり、
時に、今の流れを『止める』ことが大事だと思う。
これは「クロノス」と「カイロス」の話
に近いかもしれない。

クロノスは時刻を意味し、
一定速度、一方向に機会的に流れる
連続した時間の感覚

カイロスは時間を意味し、
一瞬や人間の主観的な時間の感覚

クロノスとしての時間の流れを止めたり、
流したりすることは僕ら人間の意思では出来ない。
でも、カイロスとして体験される時間感覚は
流したり、止めたりしている。

もう少し具体的に書くと、
幼少期の父や母との関係性
の問題を大人になって再現しているような場合
がわかりやすいだろう。
厳格な父に育てられた子供は
もしかしたら、年上の男性に父を重ねて
モノを言えなくなるかもしれない。

正解を答えたときに褒めてくれる母親の元で
育った子供は、大人になって正解探しを
続けているかもしれない。

僕らは体験として関係性を体で覚えており、
無意識にかつての関係性を
再現していることがある。
この場合、今、目の前の関係性で
トラブルが起きている時に、
かつて父母に伝えられなかった思いや、
作ることができなかった関係性を
作るような変容が必要になることがある。

換言すると、カイロスとしての時間が
ある種のループ状態になっており、
繰り返し過去の時間が再生され続けているために、
新しい時間の流れを体験していく必要がある
と言うことだ。これが止められていた時間を動かす
という意味だ。

”時を待つ”必要があるのはカイロスが流れ出す時を
コントロールすることができない点にある。
それは僕らの意図とは無関係に発生する。
日々の暮らしを通して、
カイロスが僕たちを過去の時間へと誘っていく。
そして、目の前の他者と対話する代わりに
かつての残像を争い、口汚く罵り、
目の前の他者を傷つけてしまうことがある。

もし、今体験している出来事に気づいて、
つまり、カイロスとしての時間感覚に気づき、
捕まえることができれば、自分自身を
癒すような体験につながることがある。

人生というのはある見方をすると
一人の人間として体験できる時間のことだ。
クロノスを生きる中でカイロスの存在に気づき、
自分自身や他者にとって意味のある瞬間を
創造することが僕らのクオリティオブライフに
つながっていると僕は思う。
その意味で”時を待つ”というスキルは
必要なのではないだろうか。

結び:厄介な出来事にとどまる

もし、あなたが人との関係性に疲れ、
社会の中で苦しんでいるとして、
それらの問題はあなたに立ち止まるよう
促しているのかもしれない。
前に進もうとする時、
私たちは何かを見落としながら進んでいる。
ある意味では代償を払っている。

その時に少し立ち止まって
自分の内面で起こることや
世界で起こる様々出来事が
流れるままでいることに目を向ける。
同時にカイロスとしてその時間の体験を
深く感じ取ってみる。次第にそれはただ、
心地よく安らいでいるだけでいられるようになる。

その安らぎに「幸せ」という名前をつければ、
「幸せ」とは探しに行くものではなく、
今ここで体験するものだと言える。

どんなに激しく、苦しく、悲しい状況
にあっても僕らの側にはいつも
安らぎの川が流れている。
その川に乗って流れていくことでしか、
本当の意味で前に進むことはできない。