リテラシーの差

今日はバリアフリーという言葉を借りて考えてみたいことがある。それは政治参加を妨げる要因について。例えば、こんな議論がある。

『国や自治体の借金はない方がいいか?』

直感的には、『ない方がいい』と思うかもしれない。しかし、そうとも言い切れない。例えば100億円の投資を必要とする場合、現世代で一括で100億を支払うとこれは相当な負担となってしまう。現世代は他の施策が限られてしまうし、ハコモノの場合は工事期間中で、サービスを受けることなく他界することや引っ越しすることだってありえる。

公的投資において、世代間の不平等を解消するために借金をする。

そんな考え方だってある。ところが国や自治体の借金が膨らんでいると聞けば、誰もが家計簿を思い浮かべる。借金をすぐに返したい思いに駆られる人は自治体における借金の認識がズレてしまう。

知識の有無によって議論の質が変わってしまう。知識ある場合、その知識を共有することから始める必要がある。このように、民主主義は全ての主権者に対し、参加機会を開いているはずが、政治リテラシーの差が大きい場合、共通認識を作れず、専門家集団が排他的に振る舞うことがある。

ちなみに、あと2つ、このような排他的な差はある。

 

言語能力、コミュニケーションスタイルの差

一つは言語能力に関するものだ。日本は法治国家なので、言葉で定義できないものはルールにはなり得ない。例えば、LGBTQ+は近年急速に認知されてきた。だからこそ、「同性結婚」を認めようという風向きも出てきている。他方、言語能力が低いとそもそも議論という高度な言語能力を要する活動に参加できない。認知機能に障がいを持っている方の場合、その時点で参加が困難となるし、外国人で日本語がわからない人にとっても不利である。言語能力と知性を安直に結びつけてしまう風潮もあり、参加できないだけではなく、差別の対象にすらなってしまうことがある。

もう一つはコミュニケーションのスタイルに関するものだ。比較的有利に働くコミュニケーションのスタイルは「考えを変えず、一つの意見を主張し続ける」スタイルだ。逆に「考えが固まっておらず、いろいろな意見を聴きすぎてしまう」タイプの人は前者の考えを知らず知らず受け入れてしまい、気がついたら自分自身が不利を被っていたということにもなりかねない。

 

 

政治参加のバリアフリーを目指して

改めて整理すると民主主義の理念を実現する上で、課題となる3つの差がある。

 

1、政治リテラシーの差

2、言語能力の差

3、コミュニケーションスタイルの差

 

この3つの差を無視した民主主義は非常に質の低いものである。逆に、高水準の民主主義はこの3つの差に取り組むための制度や補償がある。端的にそれぞれの差を埋めるために必要なものを整理すると次のようになる。

 

1、政治リテラシーの差⇨教育の機会

2、言語能力の差⇨翻訳の機会

3、コミュニケーションスタイルの差→訓練の機会

 

詳しくは、また機会を改めて書くことにし、政治参加には色々な差がある。これはスロープのない階段と同じである。車椅子ユーザーがその施設を利用することを想定していないとこういった設計をしてしまうこともあるだろう。同様に、今の政治には全ての人がアクセスできるような「スロープ」が用意されているだろうか。直接民主制が議論されているが、僕は間接民主制のままでも、政治参加のバリアフリーを実現できれば、まだまだ民主主義の質は上げられると思っている。

その意味で民主主義は本質的に協力を前提とする理念であり、制度は対立、分断ではなく、協力を促すものでなければならない。