<聞き手:島本昌浩>

実施時期:2021年3月~6月

回のインタビューは異例の展開となりました。
知的障害のあるお嬢さんの育児について過去二回大西さん(ノリちゃん)
にインタビューしました。
そのお嬢さんが今回、就職されたということで
集大成の三回目やりましょうか、となり
いざ千葉にいる大西さんに質問メールを送ろうか
としていたまさにその時期に
大西さんが「がん」におかされていることが判明。
詳しい状況が分からず一旦保留にしました。

しかし、今日明日命が危ないという状況ではないと分かり
こんな時だからこそ彼女が紡ぐ言葉はより重みを増すはず
と考えインタビュー決行を決意。
彼女も「そうしたい!」と受けてくれました。

一回目のインタビュー以降、
折に触れて連絡を取り合っていたので
「ノリちゃん」、「しまちゃん」と呼び合う仲となり
この度バリアフリーチャレンジ!の活動にメンバーとして
参加することになりました!


以下、闘病期間に行われたメールのやりとりに記載されていた
彼女の闘病に関する近況報告もあえて収録しています(紫字部分)。

ンタビューは高校1年~3年の各学年ごとに
大西さんが予めキーワードを用意していたので
それをヒントに私が話を深める感じで進めました。

※前述の通り、今回が三回目のインタビューで、
お嬢さんの成長段階に応じて過去二回は行われました。
短文ではないのでお手すきの際に一回目から順番にゆっくりと
読んで頂くことを推奨します。
過去二回分は下記枠内です。

一回目:「知的障害あるの?境界域にいる我が子と」

二回目:「境界域にいる娘の思春期の成長」

三回目はここから

3月9日

日は体調も良い感じです。食欲もあり、今のところは皮膚障害で全身に湿疹があるくらいです。
これから髪の毛が抜けたり、だるさがくるのかな。
今日は病院に行って抗がん剤が
どれくらい効いているのか検査です。ドキドキ!

高1 ニ次障害⁉トラウマとの闘い

(島本)
もともとあった知的障害が原因で
二次障害を発症したのでしょうか?
その経緯と「トラウマ」という穏やかでないワードが出ていますが、
その時のお嬢さんの様子を教えてください。
また、ノリちゃんは何を思い、どのような行動をとりましたか?

(大西)
「トラウマ」というのは病院の先生に直接言われたわけではなく、
私が一緒にいて、娘の状態を見たり、本を読んだり、
講演会に足を運んだりして勉強して得た知識をもとに
二次障害を発症して「トラウマ」と闘っていたと認識しています。


地域の学校の先生にサポートを受けながら

小学校ではみんなと一緒に学んできました。
そこから将来を見据えて「中学校の支援学級」を選択しました。
この「中学の支援学級」の環境がトラウマとなったのです。


本人や親の意思を尊重することなく、

閉ざされた支援級で様々な差別を受けました。
娘自身も思春期という難しい時期に支援学級に進んだことにより
「障害者」ということを受容する大事な時期です。
工夫しながら、普通クラスと行ったり来たりしながら本人と相談し、
「音楽や美術の授業は一緒に行う」
「運動会は同じ種目にチャレンジする」

など提案したことが、ほぼ受け入れられず、
中学校に「支援級がある」
ということを
知らない保護者までいました。


最初は、どんなことでも頑張ろう!

と前向きだった娘も、1年1年、
心を閉ざしていく様子が分かりました。

娘は軽度の知的障害をもつ自閉症でもあり、
人とのコミュニケーションが難しい。

そのような状態のなかで、何をやってもうまくいかない、
誤解される、やっていることが分からない、
一生懸命やっているのに怒られる…ストレスをためていきました。


私は何度も学校に足を運び、先生にも訴え、
市の教育センターにも相談に行き、校長先生にも話をしに行きました。
しかし、担任の先生の態度が変わることなく
私たち親子はどんどん疲弊していきました。


・点つなぎや、ひらがなのなぞりのようなレベルの低い教材をやらされる

・教科の先生もつかない。国旗カルタなどのカルタ教材ばかり

・作業室が半地下の空間で学校の生徒や先生の目に触れることなく、何をやっているかわからない

・支援級=刺繍という概念を捨てきれず、スウエーデン刺繍をやらされる

(これはとても難しく、先生自身に教える技術がなかったので、
教科書もなく実物をみてどういう仕組みになっているか
自分で考えて針をさしていた。
手芸が得意な私でもそんなことは無理。
私が自分で刺繍の本を探しコピーして先生に渡した。)

・作業室の道具が古い。錆びた針で刺繍など。

・個別の指導計画がない

・日常の休み時間など支援学級と一般の生徒との交流不可
(一般の生徒が支援級の前の廊下を歩くのを禁止されていた)

・運動会で全校生分の「はちまき」を洗わされる

(クリーニング請負の仕事のようにやるつもりだったのかもしれないが、
全校生徒に何も説明がなく参加したい運動会の競技に参加できないのに、
みんなが練習している間に洗わせるやり方は許せなかった。)

・同じクラスの男の子に、手をつながれる、抱きつかれる。

(娘は対応が分からず、やっとの思いで私に訴えてきたので先生に伝えると、

この男の子は小学校からそういう傾向にあったんですよと。
分かっているのなら先手を打ってほしかった。
本当に被害者だと思っています)

その他にも、ここで書ききれないほどの差別と思われることがたくさんありました。

ひとつひとつ、この行動、この作業は支援級にとして適切なのか?
対応は合っているのか?知識がない私はネットや本で調べて、考えて
先生に聞きながら、相談しながら娘の様子やこちらの要望を伝えていきました。
しかし、根本にある学校側先生たちの態度は変わらず、
私が言った事(要望)をやればいいんでしょという態度がだんだんと見え始めました。

今思えば教育委員会に訴えればよかったのかもしれませんが、
そこまでの気力がもたないまま卒業式を迎えました。


そして、娘はいろんなことを抱え人間不信のようになり、
家の中でも学校の先生の言い方、言った事を思い出したり、
幻聴、夢に出たりと、日常生活のなかで
常に思い出すようになってしまいました。

突然パニックになると、先生がこういった、
誰も信用してくれない。
誰も分かってくれない、と人を責め、
その次にどうにもならないと思うと自分を責め(自傷行為寸前)
長いときは半日ぐらい動けずに泣いたり、責め立てたりし続けました。
私は全てを娘の生活ペースに合わせ、その感情に向き合いました。
諭すわけでもなく寄り添う状態。
私もついつい切れてしまう時もありましたが、
それでもなんとか我慢して付き合いました。
中学校3年生の卒業を目の前にして、娘は「てんかん」を発症しました。
ちょうど、3年間のストレスと次の質問にある「兄の家出」
とが重なったことが原因かな?
と推測しています。

発作で倒れ、救急車で運ばれたのですが
何の病気か分からず脳神経の小児科を受診するように勧められましたが
障害がある事と中学卒業で大人の分類か小児科の分類か
という狭間にいたためか数件の病院に断られました。
私自身かなりショックと怒りとで混乱していました。

そんな中、唯一すぐに診てくれるという個人病院がみつかり
今もその病院のお世話になっています。

そこで娘の「てんかん」だけでなく
精神的に不安定な部分も診てもらい、

心の安定の薬を今も処方してもらっています。

高校生1年目はこの中学校の「トラウマ」
に悩まされながらも学校に通う

ルーティンを守ることが得意という自閉症の特徴から
休むことなく学校に通いました。
家での生活は全て娘のペースに合わせ
ストレスがないように過ごし、

学校では先生と連携しながら
「声掛け」「寄り添い」に重点を置いてもらい
努力していった結果、自分を尊重してくれる人たちを
すこしずつ信じ、それに応えて一生懸命頑張ってくれました。

1年生では2週間のインターンシップ(スーパーのバックヤード)
をこなし、
通常の授業の間に先生が付き添って
老人介護施設や衣料品倉庫の仕分け
の実習もこなしました。

職に特化した特別支援学校だったので
本当に個人を尊重した手厚い支援、学業としての勉強も
しっかりとしたカリキュラムで行われました。

きちんと娘の特性にあったように説明し、
人として尊重しながら接してくれるそんな大人をどんどん信用する様子は
人間の本質を見ているような気もしてなりませんでした。
どうせ言っていることが分からない、
知的障害だから通じない、
と思って接している人を本人は見抜いていると実感しました。

(島本)
この中学時代から高校1年生までの状況からすると、
中学時代の主として「支援学級」の環境の悪さによって、
お嬢さんに人間不信や後の「てんかん」に至るまでのトラウマ
が生じたとノリちゃんは認識しているわけですよね?

(大西)
その通りです。家庭環境などもあるので必ずしも
「中学校の支援学級の環境の悪さ」だけが原因
とは思っていませんが、最大の原因だったと思っています。

(島本)
お調べになった範囲で教えて欲しいのですが、
このような環境はたまたま通っていた学校の支援学級が
運悪くそうだったのか全体的に支援学級という仕組みそのものが
障害のある子どもを排除してしまうような傾向にあるのか
どちらだと感じますか?

(大西)
娘の通っている支援学級が運悪くそうだったのかも、
と思っています。娘の支援級で感じた事です。
支援学級でのカリキュラムは担任の先生に決める権利がありました。

なので、その担任の先生のやる気によって左右されていたように感じます。

数年前から問題になっていますが、

特別支援学級担任や、通級による指導を担当する教員については、
特別支援学校教諭免許状を有すること等の法令上の規定はない。

とあります。

文科省HPより

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1320684.htm

支援学級といっても、それぞれに特徴が違い、
その子にあった学びの場や交流が大切と思います。
交流が苦手な子もいれば、逆に得意な子もいますし、
運動が苦手な子もいれば得意な子もいます。


その子に必要なカリキュラムを作る事は支援学校よりも、
より少ない人数でカスタマイズできると思います。

ただ、専門知識が乏しく経験も少なくやる気のない先生であれば、
前年のものを引き継ぐだけ、もしくは面倒なことは避けたり、
当たり障りなくやっている先生にあたると不信感が募ります。

また逆に、その子に合わせた指導方法を取り入れたり熱意のある先生であれば
子供も伸びてくると思います。今、ふと思ったのですが
通常学級でもそれは同じですね。

学年主任がいなかったり学校全体でのチェック体制が入りにくい
支援学級というのは、困っている子供や保護者が声を上げない限り
見逃されていく事が多くあるような気がしています。

また、学校の校長先生がどれだけ支援学級に目を配っているか
学校として支援学級をどのよにな扱っているかも大切になってくるかと思います。

「勉強についていけないから支援学級にいく」のではなく、
「その子に合った学びの場」としての支援学級を作れる先生、
そして学校であってほしいと思っています。

全国的に見れば支援級という仕組みの中で交流をうまく活用し、
互いに学びあえる良い環境を作っている支援級もたくさんあると思います。


参考にしていた本

「思春期をともに生きる 中学校支援学級の仲間たち」加藤由紀著

「自閉症スペクトラム10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体」本田秀夫著

 

父親(旦那)、海外単身赴任!兄(長男)、家出からの独立⁈孤独な母が助けられたコミュニティ


(島本)

これは同居家族のうち、父親とお兄ちゃんが
家からいなくなったということですよね?
このことにより、お嬢さんとノリちゃんの精神状態にどのような影響がありましたか?

(大西)

ちょうど、娘が中学校3年生の受験前に旦那が単身赴任となりました。

息子は家から離れた学校の寮に入って生活をしていました。
なので、私と娘は二人きりの生活に。
中学校3年生、受験前と前述の通りトラウマになるほどの中学校生活とで
私は娘のサポートに精一杯の日々でした。

そんな時、息子が何日も学校へ通っていないことが判明。
ちょうど冬休みに入ったことで家に連れ帰っていた頃…

忘れもしないクリスマスの夜。
帰ってこなかったのです。
そして、そのまま行方不明に。

正真正銘の家出です。
娘を預けるところもなく、
息子の捜索から学校との連絡等々全てに対応する状況で
娘は、私が心配し涙を流し、時には取り乱し…
そんな状況を目の当たりにしました。
という事で、私は本当に極限状態だったんです。
何をしても涙が出る。
でも毎日生活しなければならない。
娘の学校での出来事へのきめ細かいサポート、受験の準備、
そして受験、などをこなしつつ娘のまえでは明るくしなければならない。
大事な大事な子どもが、1人いなくなり、頼れる夫は海のはるか向こうの中国へ。
かわいい娘はきめ細かい支援が必要な状態…
どうして、どうして、私がこんな目に。
波乱万丈とはこのことか!どう作り笑いしても、
娘は私の精神状態を見抜いていいたようで
「てんかん」を引き起こした1つの要因になっているような気がします。

(後日、息子は元気に働いている事が分かり今は連絡もとれています。)

4月6日

しまちゃん、こんにちは。今日、娘は遅番勤務!

昼の12時~夕方18時半までです。

久しぶりに、午後はのんびりです。

(島本)
「孤独な母」という記述からするとノリちゃんの方が
メンタルにかなりダメージを受けたようですが、

生活はどう変わったのでしょうか?

(大西)
旦那と息子がいないなか、娘と二人‥
娘はトラウマと闘いながらも一生懸命、学校へ通いました。
毎日、全て娘に合わせた生活。
朝は一緒に起きて、夜も同じ時間に寝る…
すごく音に敏感になり外の子供たちの声がうるさい! 
とパニックなるので娘が帰宅したら全ての窓をしめていました。

自分がトラウマでフラッシュバックしているのにテレビの中の人は笑っている
とパニックになれば、テレビを消す。
私がテレビを見たいときは全て字幕で音無しで。

また、パニックになった時は何時間も一緒に話を聞いて、
時には半日もずっと同じ場所で話を聞くことも。
休日は娘の好きな場所にだけ出かける
(動物園、水族館、ネコ散歩、好きなキャラクターの施設など)

など本当に、娘に全てを合わせる生活になりました。

1人きりでメンタルがやられているのに、
娘に合わせる生活。

学校に行っている、
という事が本当にありがたく、
学校に行っている時間だけは私の自由時間として
手話講座に通ったり、
ランチに行ったり、
と動ける時間でした。

また、もともと私自身、
明るい性格だったので
娘の好きな場所に出かける時は
自分も楽しむようにしていました。

(島本)
ノリちゃんがご主人と息子さんの家出で極限状態
だったというのは
話としてしっかりまとめられていて
よくわかりましたので
追加質問はありません。
他方で、この状況をサポートしてくれたという
まだ触れられていない地域コミュニティについて教えてください。

(大西)
コミュニティはとても大切だと実感しています。
娘が生まれた年にこのマンションに入居しました。

コミュニティと一緒に娘は成長していきました。

今はコロナ過で活動は少ないですが、
以前は夏、冬と年に2回のお祭り
季節ごとにある様々なイベントを通しての
交流はかけがえのないもので私自身も娘も
たくさん助けられました。

また、手話関係のコミュニティも私の心の支えとなりました。
マンションのママ友との手話の会や地域の手話サークル、
地域の手話講座。ともすれば、娘と二人きりで向き合う中で、
ストレスが爆発しそうな時も一緒にイベントに参加したり、
悩みを相談しあったり、とても救われました。
やはり、二人きりの中でどうしても解決できない問題ってあるんですよね。

それをどう乗り越えるか、考えても答えが出ず悩みの中にいる時、
人との交流は根本的な解決にならなくても
乗り越える力を与えてくれると思いました。

孤立の中ではどんどん、悪い方向に向かってしまうように感じました。

様々な相談機関ってありますよね。
学校だったり自治体の相談ダイヤルだったり。

そのようなところにも、何回か電話しました。

しかし、面談の予約がとれない、
パニック状態になっている娘をそばにして何の解決にもならない、

何件もの相談ダイヤルをたらいまわしにされる、
という事を経験しました。

そんな時も、マンションのお祭りにスタッフとして参加したり

手話サークルに一緒に行ってそのあとランチしたり、
実際に声をかけてくれて仲間に入れてくれるコミュニティが

力をくれました

今でも、その繋がりはかけがえのないものになっています。

 

高2  職場実習からの大きな学び

(島本)
ここは同じ立場の人にとってすごく参考になる部分なので
詳しく教えて頂けるとありがたいです。
これは学校のカリキュラムに組み込まれていて実習先が確保されてるのでしょうか?

(大西)
娘が通っていた学校は最終的に進学ではなく、
就労を目指す方針がしっかりとした学校で
実習先は確保されています。


通常の授業内では1カ月に数回、

先生1人生徒2人で固定の実習先に行き
先生の指導を受けながら働く力を付けます。
その他に1年生では1回、2年生では2回、
3年生では就職先が決まるまで何度もインターンシップを行います
これは学校内に5名、職業安定所の職員が出向していて
障害者雇用を受け入れている企業と生徒とを繋いでくれて、
1回のインターンシップで2週間、
自宅から職場に通い本格的な実習を行います。

(島本)
実習先はどんな業種で仕事内容はどんなものでしょうか?
通うことで目に見えて成長していくような感じだったのでしょうか?

(大西)

娘は1年生ではスーパーのバックヤードでの野菜の袋詰め。
2年生では「松屋」で食器洗浄、病院の厨房
でインターンシップを行いました。

毎回、学校でのインターンシップ集会、
企業の人の就職についてのお話、

インターンシップ先の面談と契約、
毎日の実習日誌での振り返りと課題洗い出し
最終日での振り返り、最後には企業へのお礼状と
きめ細やかな手厚いサポートがあります。
目に見えて成長を感じます。

本当に、適切に指導すればどんな人も伸びるんだ
と実感し、わが子への期待や希望が膨らみました。
最終日には毎回涙するほどです。

自分の長所、自分のできる事をしっかりと認識して相手に伝えらえる、
また、自分の苦手な事を把握し、相手に伝えどうすればよいかアドバイスをもらう
理想的な環境で働くことができました。
例えば…娘は突然大きな声で話しかけられると怒られていると思って恐怖に感じる、
という事を伝えると職場の人からあらかじめ
「病院の厨房での洗浄作業は、周りのいろいろな音で人の声が聞きにくいので
大きな声で説明や指示があります。怒っているわけではないので安心してください。」
と助言がありました。娘もとっても安心して働けました。
大きな声=怒っている、
という固定観念や思い込みをその場の状況に合わせて
説明されることによって理解でき、安心して働くことができました。

伝える事、お互いに理解しあう事がどんなに大切な事かを
親子ともども思い知った実習でした

(島本)
とても充実した時間だったようですが、
不安になって「行きたくない」

となるようなことはありませんでしたか?

(大西)
実習に行きたくないという事はありませんでした。
不安はありましたが、学校ではできたことはよく褒めてくれて
本人を尊重し頑張りを認めてくれます
また職場でも、担当者だけでなく「支援学校から実習に来ます」
という事を全員に知らせ、皆さん優しく受け入れてくださいました

特に娘は「挨拶」がしっかりできる子だったので、
印象が良かったようです。
これについては私の父が(娘にとってはおじいちゃん)
職業安定所に勤めていたので、娘に障害があると分かってからは
「挨拶だけはできるようにしなさい!」
と事あるごとに言われました。なので家でも
挨拶を習慣にするように心がけたことで

今になってみると本当に挨拶の習慣がついて良かったと思っています。

職場の休み時間には、たくさん話してくれたり、
休憩室にテレビがあったりバイトの若い子がいたり、
おばちゃんがいたり、おじちゃんがいたりと
学校とは全く違う環境に刺激と楽しさ、働く喜びがあったようです。

大変だけど、楽しいこともあるし、上手くいったり、
新しいことができるようになったりしたら嬉しい!
という感覚があったようです。

逆に学校も実習もない夏休みや冬休みなどの長い休みには
暇になって「トラウマ」を思い出し、
「生きたくない、死んだ方がいいんだ…」
とパニックになる事がありました。

6月4日

来週から抗がん剤治療が始まるのでその前に答えられるだけ答えていくね。

(島本)
きめ細かなカリキュラムが整備された学校であることがよくわかりました。
就職することに特化して指導する方針のようですが、
進路選択に際して、卒業後「働く」
と決めていないとこの学校を選びませんよね?
その人生設計の決め手は何でしょうか?

(大西)
決め手…今質問を受けて改めて考えてみました。
私としては、ほぼ無意識というか「働く」ことは
当然としていました。
聞こえないママ友の松森果林さん*と出会い、
「障害」の認識がどんどん変わっていきました。

*人生の途中で聴力を失い、聴こえる世界と聴こえない世界をつなごうと多方面でご活躍のユニバーサルデザインアドバイザー
私自身2回対面したことがあり、過去にメールでインタビューもさせていただきました。
松森さんが私のことを友人の大西さんに
ご紹介くださりこのご縁がつながった経緯があります。

本人は何ができるのか?本人主体の人生。
できないことを決めつけないそう考えていたので、
娘も自然と私の考えの影響を受けていたのかもしれません。
また、知的障害のある自閉症という診断を小学校6年生の時に受けて
療育手帳を取得しましたが、そこまで成長する間の、
はっきりとした診断を受けるまではグレーゾーンという認識でした。

なので、本人の特徴がどのようなものなのか?
見極めながらの成長過程です。
その中で、地域の幼稚園、小学校と経験し、

「将来は働く」という教育の中で育ってきたと思います。
小さい時も「大きくなったら何になりたい?」と聞かれると、
「動物園の飼育員です。」と答えるような環境にいました。


私たち親も、得意な事を伸ばして仕事につながればいいな、

と思っていましたし、常に模索していたように感じます。
そして中学校での差別的な教育に出会ってしまい、場所を選ぶ、
よりよい環境を探すという事に目を向けるようになりました。
そして県内を調べた結果、地域の支援学校高等部よりも
就職に特化したこの学校を選びました。


決め手はこれ!と一つではなく、障害のある娘との成長過程で

親子でたどり着いたという感じです。

(島本)
大変な中学生活だったからこそ本人にも中学卒業後、
そして、その先への思いも芽生えていたと想像します。
親子で話し合い、本人の意思も尊重された結果なのでしょうか?


また、この辺りの進路選択ついて経験者として

今後同じ道を通る親子にアドバイスがあればお願いします。

(大西)
この学校に決めるまでに、
学校見学や文化祭に何度も足を運びました

そして、初めて行った文化祭での
「障害がある人たちに全く見えない!」
という娘の一言が今でも忘れられません。
本人主体の尊重された教育を受け、
人として大切にされ働くことを期待された先輩は
こんなにも立派なのかと私自身も驚いた記憶があります。

学校見学をすることによって、実際に見て、感じて、
情報を得て一緒に決めました。やはり、障害があると親はどうすればよいのか、
いろんな感情のなかでとにかく迷うと思います。
アドバイスというほどではありませんが、本人とよく対話して欲しいと思います。
対話といっても難しく何かを語り合う事ではなく、会話の中で何がしたいのかな?
どういう特徴があるのかな?とちょっといろいろ気にして観察してみてください。

そして、学校の先生や家族、友達、ちょっと先を行く先輩などから情報をたくさん得て
広い目で見て、考えてみて欲しいと思います。
できない事を決めつけず、本人の成長を心から信じてあげてください。

高3 自立と孤独の理解「臨機応変をなめてたわ…(^^;)」臨機応変に生きていく難しさ

(島本)
急にトーンが変わって具体的な出来事ではなく
状況への対応という大きなテーマなのかなと感じます。
具体的にどういうことか教えてください。

(大西)
急にトーンが変わった…と言われれば確かに…
「自立と孤独」の理解は目からウロコだったのだけど…
学校では「自立」することを特に3年生では力を入れて指導されます。
「自立」することが全て1人でやる事。
1人になる事と娘が思っていたみたいです。

就職することは「自立」だから、
テーマパークにお母さんとは一緒に行けない。
しばらくしたらグループホームに入らないといけない。
なんでも1人でやる必要がある。と思っていたらしく
孤独だ、どうしよう…という漠然とした不安を
口にするようになりました。


1人で電車に乗って職場に行く働くことは

「孤独」ではない、「自立」=「孤独」ではないことを
少しずつ説明しています。

また、先日ふと娘が「臨機応変をなめてたわ…」
といったのです。何のこと?と思ったら…

なんと、今のタイミングで
「臨機応変に対応することの難しさ」
を痛感していたのです。今までは、言われた通りにやる、
という感じだったのですが、その場の状況に合わせて
自分で考えて臨機応変に対応しなければならない、
それが難しいな~とやっと今、実感しているようです。

学校でも「自分勝手なことはしてはいけなせん!」
と言われるときと「自分で考えて行動しましょう。」
と言われる時があります。

さて、さて、自分は今はどうすればいいのか?
とにかく悩むようです。

生きる事は「臨機応変」の連続です。
「自分で選択する」ことの連続です。

職場でもきっとたくさん悩む時があるのでしょう。
「自立」と「孤独」を意識し、「臨機応変」を痛感する娘は
社会人として今までと違う環境に一歩を踏み出すこの時期に
大きな成長をしているんだと、驚きもあり嬉しさもあり…
というのが母の心境です。

(島本)
具体的に回答してくれたおかげで言葉の意味がわかりました。

回答を頂いて僕としては、もっともお嬢さんの内面の成長を感じました。

「臨機応変の難しさ」についてこの時期本人に気づきがあったとに
驚かれたようですが、幼少期から継続して様子をインタビューさせていただく中で
成長に伴い、「定型発達」の子どもとの差が際立つところはある
とおっしゃていました。

この項目に書いているお嬢さんが感じた
「自立」と「孤独」の違い
についてもそうですが、
このことについて
キチンと筋道を立てて
子どもに説明するのは
骨の折れる難しい話だと思います。

お嬢さんなりのペースで
獲得していってこの時期が今なのかなと感じます。
このような第三者の見方について
何か思うところについて補足があればお願いします。

(大西)
「定型発達」の子を持つママ友に
娘の学校の話をした時のことです。

就職に関して、自分には何が合っているのか、職業の授業があったり、
将来の生活について細かく丁寧な指導がある事に関し、
「うらやましい」という声をよく聞きました。

高校や大学に行くために学力ばかりに注目して
いざ就職を考えたときに何になりたいかなんて

何が向いているかなんてわからない…という声もききます。

「自立」と「孤独」の違いに気づいていった娘には
家庭だけの力ではなく特別支援教育を専門とする学校の力
が大きく作用したと思います。

知的障害者は車の運転ができない、
結婚できない、働けない
などというフィルターは一切かけず、
特性を理解し、ポイントを踏まえたうえで
将来の可能性を伸ばしきちんと教育してもらいました。

また私自身も学校の「進路勉強会」に何度も足を運び、
「自己理解」⇒「自己選択」⇒「自己決定」という基本の流れや

働く上での基礎となる事をたくさん学びました。

私も娘も、高校生活の3年生で一気に理解したのではなく、
3年間の教育を経て、少しずつ学び、実感し、
先輩たちの実際の姿を見て理解していきました。

時間がかかっても、適切な教育を受け、
社会人1年生としてスタートできたと思っています。

私自身は今振り返ると「谷」のところは大変でしたが、
今、その分「山」のところでは嬉しさもひとしお


他の人にはできないような貴重な人生を歩んでいる!と思っています。

おもしろいことに、卒業間近の授業で娘が「人生のフォローチャート」
というのを書いていたのです。中学校3年間は「谷のマイナス」まで落ち込み、
就職で「山の絶好調」まで上り詰めそこからずっと山のまま横ばいでした。

思わず笑いました!楽観的」なところは私に似たのか
娘の強みだと思いました。

「定型発達」「知的障害」いろいろあると思いますが、
そのようなフィルター無しに個人としての性格を見ると
「楽観的」な部分でかなり得をしているのではないかと思っています

小学校低学年の時、普通クラスにいた娘がまだ覚えたての言葉で、
自分は「障害と普通のハイブリッドだね。」
といったことが忘れれられず…が療育手帳を取得し、
社会的に「障害者」としての道を歩き始め、障害者雇用で
会社と行政との二人のジョブコーチが交代で見守る中で働き始めた今、
本人は自分の事をどう感じているのか…
これから、どう成長していくのか?
壁にぶつかるのか?どんな人生を歩むのか?


社会人として働き始めて3日目の今日、いろんな思いを巡らせています。

近況報告追記

時系列的には以下もう少し前にいただいていたのですが、構成の都合上この部分に掲載します。

明後日からまた2泊3日の抗がん剤の入院へ。
携帯は使えるので、また連絡するね~
7日の手術後は自分でもどのくらい動けないかは想像できないので

もしかしたらしばらく連絡が空いちゃうかもしれないけど

多分、2,3日後には携帯は見られると思うので連絡してね。

私からも可能な限り連絡します。実際に働き始めて、職業センターのジョブコーチが来られない
という蓋を開けてみれば、違う状況に戸惑っているというか怒り?また?という感じ。
でも、持ち前の明るさと、決められたシフトで通うという特性からか

毎日、頑張って勤務しています。こちらもまた今度詳しくお知らせするね。

6月7日

インタビューする側もどんな内容だったか、忘れかけちゃうよね。ごめんね。

闘病生活の今、想うこと

(島本)
当初は想定していなかった
がんとの闘病生活の中でのやりとりになりました。

そのことに触れないインタビューは僕にあり得ないし、
闘病のことも
出していいとのことなので
答えられる範囲で回答お願いします。

この4月からお嬢さんが無事に就職して働き始めましたね。

感じられる良い変化、
現時点の課題等どんな感じですか?

(大西)
実際に働き始め、学校での教育がよくしみ込んでいるのか、
「働くこと」への前向きさを感じます。

「働くことは楽しい事だけではない」
という事も学校でよく学んでいたようで、
嫌な事があっても私に話し、
気持ちの整理ができているような気がします。

それでも、最初の1週間ぐらいは感情的になって
家で泣いていたこともありました。
今は、大丈夫です。

働くことを目指す学校で、
「就職がゴール」という考え方ではなく、

先輩たちの例などから「仕事を辞めてしまう理由」
や「継続するコツ」など
就職後の実際の働き方や問題
点なども学校で学ばせてもらいました。
また就職後3年間は学校のサポートもあります。

そして3年生の時には、
その後自分たちをサポートしてくれる機関を実際に訪れ
未来の自分について想像しやすく、行動しやすいような状況
を作ってくれています。

「ハローワーク」「障害者就業・生活支援センター」
「障害者職業センター」などと連携して困り感なく働ける事を目指していました。

障害者就業・生活支援センターの概要↓

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18012.html

また、就職先として企業のジョブコーチがいる会社を選びました。

ですので、しっかりとジョブコーチにサポートしてもらいながら
働ける環境で仕事をすることを望んでいました。

しかし、いざ仕事を始めてみる
と…「障害者職業センター」のジョブコーチと企業側との条件が合わず、
娘の仕事場にセンターのジョブコーチが入れないという問題が発生。

結局、行政の機関からジョブコーチが
派遣されることがなかったのです。

企業側のジョブコーチも月に数回しか来ない状況で、
分からないことを聞く人がいない戸惑いの中で、
必死に仕事に取り組んでいたようです。

その後、この問題についてはまだ解決ができていない状況
でどのように娘をサポートしていくか学校や企業のジョブコーチ、
現場のマネージャーと話し合っているところです。

そんな中でも、企業側のジョブコーチ、現場のマネージャー、
家庭とを連絡帳で繋ぎ娘の問題点や困り感を共有したり、
学校の先生が職場に出向いて面談してくれたりと

出来る限り工夫をすることで持ち前の明るさもあり、
一つ一つ乗り越えていっています。

私自身「ジョブコーチがいる会社=安心できる会社」
と思い込んでいたようなところもありました。


しかし、何日間ジョブコーチがついてくれるのか?

どのようにサポートしくれるのか?を
しっかりと確認する必要があったと思っています。
コロナ禍で就職できることだけでも有難い!と思い込んでいたので、
いろいろと確認不足だったと反省しています。

後の課題としては、娘の苦手な面である
コミュニケーションの部分
をサポートしてくれる体制を作る、
いう事がカギになってくると思います。


また、娘にも「注意は怒られているのではなく、

仕事がうまくいくように指導してくれている」

「周りがうるさいので大きな声で話すことは怒られている事ではない」
「時間に間に合わせるように急いでいても焦らなくてよい」など、
その都度、臨機応変に様々な状況を経験することによって
覚えていって欲しいと思います。

(島本)
わが子が就職するというのは大きな節目で
一応「子育て一段落」というのが一般的な親の認識
としてあるかと思います。


ノリちゃんの場合はどうですか?

子どもに障害があるということで、
肩の荷が降りた感じはないとか
特有の感覚はあるのでしょうか?

(大西)
子どもの障害のある、なしに関わらず
就職したら子育て一段落!
という感覚は私も同じです。

娘に障害があるから、
まだまだ世話をしなければならない、
という感覚はありません。

娘が就職したら私も働く夢がありました。

私自身ずっとフルタイムでバリバリ働く女性
に憧れていました。そして「手話」に出会ってから
「手話通訳になりたい!」という夢をもち、
子育てしながら手話に関わってきました。

娘が高校に通い始めてからは、
「あなたが働き始めたら、お母さんも手話通訳として働くからね。
一緒に頑張ろうね!」と話し地域の手話講座に通い始めていました。

娘が就職したら、私も働く!一緒に社会人スタート!
というワクワク感でいっぱいでした。

(島本)
インタビューの当初のシナリオにはなかった事態として
ノリちゃんの「がん」が判明し、やりとりをしている
数ヶ月の間に悪化して治療方針も変わり、
手術が前倒しになりました。

こればかりは誰にも先が見えないのですが、
単刀直入に質問します。
現在、自分がいなくなってしまうことを考えて、

勿論お嬢さんだけが大切な存在ではないですが、

お嬢さんのために、

何かできる準備をしていますか?

例えば、お金のこと、支援者との連携で
家族にここはこうして欲しいと伝えるなどです。

(大西)
娘のために、何かを…という考えはありません

一回目のインタビューの内容で療育手帳を取得するときに
主人が言ったように娘自身は「変わらない」し
私たちのやらなければいけないことも「変わらない」
という事です。

ウィッグをつけた発病後の大西紀子さん 病気のことがわかって顔を出そうと決めたそうです

私がいなくなるかもしれないから…早くから後見人を…

早くからグループホームを…といくら準備しても
娘のタイミングに合っていなければ
意味がないと思っています。

また、何かあった時に孤独にならないようにと
手話サークルやマンションなどのコミュニティとの

繋がりを作ってきましたし、
今の福祉制度もしっかりとしています。

日々、娘の成長に合わせてやるべきことをやってきた
と思っています。なので、そのスタンスは変わりません。

誰しもが交通事故や大地震で明日をも知れぬ命なのです。

(島本)
闘病の結果がどっちに転ぶか分からない状況で
分かったようなことは言えません。

ただ、僕自身生死をかけた大病をして、医師から「難しい手術になります」
と言われてそれを待ったことがある身なので、
病気でどうなるかわからない不安な気持ちをだけほんの少しは汲めるとは思います。
とはいえ、人それぞれなので今どんな思いなのか、
事態が好転すれば親子でどう生きていきたいですか?

逆は考えたくはないけど、
それについても教えてください。

更に、仮に、この先自分なしでお嬢さんや周りの人が
生きていくことになるなら、今何を伝えたいですか?

(大西)
まずは思い切ってこの質問をしてくれたしまちゃんに感謝です。
きっと、貴重な経験をしてきたしまちゃんだからこそ聞ける質問ですよね。
以前のインタビューでもそうでしたが、
こうやって回答することで気持ちの整理ができます。
そして、その気持ちを残すことができ、振り返りもできます。

たぶん一人ではこの気持ちの整理はできなかったかもしれませんね。
病気が分かってから、実は自分の事を考える事ができませんでした。
どんどん体調が悪くなる中で、娘の卒業式、その後の就職の手続き、
支援機関とのいくつもの面談など、全て主人に引継ぐ作業と娘に病気を伝える事、
そして大事なこの病気の詳しい状況を調べる事。いっぺんに押し寄せて
「悲しい」とか「もっと生きたい」など、自分の感情が出てこなかったんです。

そして一つ一つクリアしていく中で、
やはりコミュニティに助けられました。
毎日メールをくれたり、手紙やプレゼント、
お料理を作ってくれたり、お守りを送ってくれたり、
娘に好きなキャラクターの絵を描いてくれたり…。

今は、手術も終えて今後の治療方針も大まかに決まり、
少しずつ先の事を考えられるようになってきました。

そして、病気の事をどのように受け入れるかが心配だった娘も、
しっかりと受け止めてくれています。

今では毎朝「体調どう?」と聞いてくれます。

会社に行く時には私が「気を付けていってらっしゃい」と送り出すと
「体調には気を付けてね」と言ってくれたりします。

極めつけは「テーマパークでは車いす借りてあげるからね。」と。

そんな娘の気持ちや、家族のサポート、周りの人たちの励ましに、
今の気持ちとしては、とにかく治療を頑張っていく!ただそれだけです。

治療の間の体調の良いときは、お出かけしたり、手話サークルに行ったり、
マンションの仲間と会ったりいろいろとできる楽しみはやりたいと思っています。
残念なのはコロナ禍ということです…。

でも、これは本当に気を付けながら楽しみは続けたい!というところです。

そして、どうしても諦めきれないのは「手話通訳士」になる事!
娘と、どのように生きたいか?といえば、
娘が仕事をして働き私も手話通訳として働きながら

余暇はテーマパークに行ったり
旅行に行ったり、楽しみたい!です。

息子に「手話通訳士」の夢を話したら、
「この歳でまだ働きたいの?」って驚かれましたけど笑

家族4人、それぞれがそれぞれに働き、
たまに家族旅行に行ったりして、あーだこーだ言いながら

お互いの時間を共有…したいですね。

逆の質問…

これも答えちゃいますね。

私がいなくなったら、何を伝えたいか?

正直、今は答えが見つかりません。
今思い浮かぶのは、ただただ感謝しかないです。

もう少し、病状が悪化してくる時が来たら、
ものすごい感情が出てくるのかもしれませんね。

今はとにかく治療を頑張る!そして今を楽しむ!
いう事だけですね。

あと何年もして、いよいよの時がきたら、
ぜひしまちゃん、また質問してください!

待ってますよ(*^_^*)